オリジナルって何だ 音楽の真髄って何だ?

山之内氏は「スタジオで録音したのと同等の“オリジナルの音”がそのまま家庭で楽しめるなんて、今までなかったこと。声の柔らかさ、ブレスのリアルさなど、オリジナルの持つ強み ? 言うなれば音楽の真髄を味わわせてくれる」と賞賛。

最初に断っておくと、私はピュアオーディオ愛好家ではありませんが、ピュアオーディオ愛好家が嫌いだってこともありません。

上記の記事で、「スタジオで録音した」ものが「オリジナル」であるように解釈できる発言があるのですが、これにはちょっと違和感があって、個人的には音楽におけるオリジナルというのは、つまり演奏の現場で、その場所固有の空気の振動を体で感じること、だという気がするのです。でも、そんなこといってたら現在における「録音」による再現を前提とした、視聴覚体験は、いきなり全否定されてしまう。だから、ここでは私は原理主義的な主張をするつもりはないのですが、かといって専門家が「オリジナル」とまで断言していいのかどうか、には気持ち悪さが残ります。

録音、というのはつまり、そのものが空気振動を電気的記録へと置き換えていますし、デジタルならさらに符号化も経ているわけで、このもろもろの変換を経由した後であることにも関わらず、これをオリジナル、としてしまうのは、発言者の立場が関係していると考えるのが自然でしょうか。つまり録音/再生の現場に近い人。この人たちにとってはオリジナルとはつまり「マスター」に近い状態を指すとしても自然なことなので、上記のような発言になったのも頷けます。

ちなみに、じゃあ「○○教会にて○○時から○○の演奏をします」、という古くからの体験としての音楽の形が「オリジナル」なのか、というと、それすらいろいろと議論は残るのですが、本エントリとしてはやり過ぎなので掘り下げられません。そもそも「同じ音(認識)を複数の人が得る」ということは音楽においてはありえない、という見方もあるので、オリジナルの定義があいまいになってくるというか、コミュニケーションの道具(言葉)として、オリジナルという単語が使えない、というか。

で、話を戻して、山之内氏の主張も、ここまでなら「ふーん」でいいのですが、「いうなれば音楽の真髄」までくるとさらに気持ち悪い。オーディオに関係することと音楽に関係することはイコールではありませんが、だとすれば「音楽の真髄」と発言していいのか?「オーディオの真髄」ならまだ発言できるかもしれないが。

現代の音楽はすでに、録音、媒体化を経て、どこかまったく別の場所と機会と環境で繰り返し再生されることを前提としています。が、だとしても、これを「音楽の真髄」などといってもいいのかどうかは疑問が残るところです。現代の音楽はふたたび体験的価値を求めて、特定の環境を前提としたインスタレーションが数多く造られていたりしますし、いまなお、音楽自体は「録音と再生」を前提としてしか語れないような脆弱なものではないと私は思います。

で、ここまで言っといてあれですが、でも、この記事の編集者による加減を経た後に上記のような記事になっていて、山之内氏自身の発言とは細部で異なりがあるのかもしれません。
山之内氏のオリジナルな発言かどうかは不明です、ということかな(笑)